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江戸川区あれこれ

江戸川区の歴史

江戸川区の歴史の写真

 原始・古代

江戸川区内が初めて歴史に現れるのは、正倉院に残る「正倉院文書」にある養老5年の下総国葛飾郡の戸籍に記された「甲和(こうわ)里」という地名です。これは現在の江戸川区小岩に当たるとされ、約50戸ほどの郷里であったと記されています。しかしながら、当時は川、沼、池の錯綜する広大な湿地帯地域で、現在の区北部以外はほとんど居住者のいない場所であったと考えられています。

 鎌倉時代・室町時代・戦国時代

鎌倉期に入るころ、下総国の有力な豪族として勢力を誇っていた千葉氏の支配下として、区内の地区名がいくつか散見されました。特に篠崎の地域は葛西氏の領する葛西御厨の中心地として栄え、また今井(現在の江戸川区瑞江付近)・長島(同東葛西)は太日川河口の湊として賑わいました。のちに、北条氏の影響が強くなってくる室町期後期ごろには、江戸衆と呼ばれる江戸城代遠山氏を中心とした家臣団の支配下に入り、区内の一部が太田氏や富永氏らの領地となっていた記録が残っています。

 江戸時代

徳川家康が江戸に入府すると、区内のほとんどは江戸からの距離の近さもあり、幕府の直轄領となっていました。なお、堀江町(現南葛西)の左近川河口付近に「将監」という地名があり、江戸幕府の舟手奉行であった向井将監忠勝の屋敷、もしくは領地があったことに由来すると伝わっています。
江戸初期における江戸川区内の石高は約1万5千石ほどで、区内のいたるところにあった湿地帯や、河口の中洲砂地の埋め立てによる新田開発がすすみ文政年間には2万石を超えるまでに増加しました。あわせて江戸期には漁業も盛んになったとされています。

 明治時代・大正時代

大政奉還後、慶應4年(1868年)に東京府が設置されると、現江戸川区の範囲(武蔵国葛飾郡)は東京府には入らず、小菅県の管轄地域となりました。わずか2年後に廃藩置県が執り行われ、葛飾郡の現江戸川区範囲(上小岩村、中小岩村、下小岩村、上小松村、西一之江村、新堀村、松本村、船堀村、二之江村、桑川村、長島村、宇喜田村、上平井村、中平井村、逆井村、下平井村、鹿骨村、前野村、笹ケ崎村、伊勢屋村、下鎌田村、上鎌田村、下今井村、上今井村、興宮村、下篠崎村、下小松村、東小松川村、東一之江村、西小松川村、本一色村、上一色村、下篠崎村、上篠崎村、谷河内村)も改めて東京府に編入となった経緯があります。

村の数が多かったこともあり、すぐに十八村の「連合村」と呼ばれる組織に再編され、さらに明治21年(1888年)4月の市制・町村制の公布によって、小松川・平井・葛西・松江・船堀・瑞穂・一之江・鹿本・篠崎・小岩の十村が誕生しました。

明治28年(1895年)に江戸川区を挟んで対岸である、当時の千葉県東葛飾郡行徳町より江戸川区より西側の飛び地部分(妙見島等)が編入されました。次いで大正2年(1913年)に瑞穂村と一之江村が合併し、瑞江町が新設され、さらに大正3年(1914年)の荒川放水路開鑿により、大きく地勢が変わり、船堀村、小松川村、平井村が廃村となり、各村に吸収された残りが小松川町に統合されました。

 昭和時代

昭和7年(1932年)10月1日に、南葛飾郡小松川町、葛西村、篠崎村、松江村、 瑞江町、小岩町、鹿本村の7町村が合併して、ほぼ現在の江戸川区を形づくることとなります。

(江戸川区資料提供)